インタビュー

2014年1月、アジャはロサンゼルスから車で2時間北へ走ったところにあるサンタバーバラという街でサットサンを開きました。そのサットサンへ出向き、アジャのことを大勢の日本人に知ってもらいたいという思いからインタビューを申し込んだところ、快く引き受けてくださったのです!詳しいインタビュー記事は、ナチュラルスピリット社のスターピープルという雑誌Vol. 49(3月31日発売) に載っていますので、ぜひ読んでみてください。
2014-01-26 14.51.08
下記は、その雑誌に載らなかったインタビュー内容です。

珠美:ご自分について、「仏教徒」というアイデンティティーをお持ちですか?

アジャ:今現在、そのようなアイデンティティーを持っているかということですか?「仏教徒」というアイデンティティーは自分の中に存在していません。自分を何にも特定(識別)していません。いずれの観念形態(イデオロギー)ともです。そうは言っても、私の禅ティーチャーの経歴は禅です。「これから教えていきなさい。」と私にお話ししてくださった方も禅ティーチャーです。皮肉にも禅を勉強していくうちに、いずれの観念形態とも関連するアイデンティティーを取り除くという認識が生まれました。仏教を非常に尊重していますし、敬意を払います。でも、自分が「仏教徒」であるというアイデンティティーは持っていません。

珠美:アジャの日本での知名度を調べるために検索したところ、ある日本人男性がブログでアジャのことをこう表現していました:「どの宗教にも属さない修道僧」この表現は正しいですか?

アジャ:(笑)比喩的にはそうですね。でも、私は僧ではないのです。比喩的にはそうでしょう。いつも自分は僧のようだと感じています。今の髪の長さはとても長く感じますね。頭を剃った状態が好きです。確かに、私は多くの僧の特徴を持っています。
珠美:一度もご自分を「僧」と思ったことはないのですか?
アジャ:いいえ、そう思ったことはありません。実際に出家するためには、形式化された過程を踏まなければなりません。確かに一度は僧になろうと思いました。でも、僧になろうと思ったのは、主には私のティーチャーから僧にならないか、と尋ねられたからです。とても嬉しく思いました。出家することは素晴らしいことだと思いました。20代前半の若者でしたから。

でもそれから、なぜ僧になるのかということを考えました。なぜ僧になるのか?自分は、何を一体求めているのか?やがて、自分にとって僧になるということは1つの手段に過ぎないのだ、ということを理解しました。悟りを開く1つの手段としてです。僧になることをよく考えたら、「出家する」ということ自体が誠実なことなのだということに気が付きました。これは神のお召(天職)なのです。「出家する」ことで自分が何を得るかを考えたとき、僧になることが全てではなく、何かを得たいからそのために僧になりたいと思ったのです。悟りを開く手助けになると考えたのです。この考え方に信憑性はないと感じました。僧になることは、手段ではなく僧自体が神のお召であるべきだと。それが自分にはありませんでした。だから、僧になるための過程を踏むことはできないと思いました。

「出家する」という伝統を尊重していますので、自分が献身できるかどうか正直にならなければいけないと思いました。悟りについて非常に興味を抱いていました。私にとって、仏教すら1つの手段だと理解しました。仏教は、私が悟りを開きたいと思っていることの助けとなるだろうと思いました。

一度も仏教を生活(ライフスタイル)の選択だと思ったことはありません。仏教徒になり、それが自分のアイデンティティーとなり、それが自分のライフスタイルとなる、または出家の道を選択する。それに魅了される人もいるでしょう。しかし、私はそれには興味がありませんでした。それよりも、私はずっと教えたいと思っていました。

珠美:どのような過程で「アジャシャンティ」へ改名されたのですか?

アジャ:(笑)あまり面白くない話だと思います。最初は、空想的な名前とかスピリチュアルな名前とかに改名することに対してひどく反感を抱いていました。それは自分のスタイルではないと思っていました。教え始めてから6ヶ月から1年経って、自分の中で「別名を持つべきだ」という声を聞くようになりました。その声を聞くたびに「だめだ!それだけはしない。スピリチュアルな名前は自分のスタイルじゃない!」と否定してきました。1年間ほど、その自分の中の声を無視し続けてきました。そしてある日、「少なくとも聞くだけ聞こう。」という気持ちになりました。決して人には、「避けなさい」とは教えないのですから、自分も自分の声に前向きに取り組もうと。

ある日、サンスクリット語の用語集をぺらぺらと「A」から見ていくと「アジャ」(Adya: Primordial)が「根源的」という意味であることを知りました。「Adya」という言葉を見た瞬間に、自分の中で「これだ!」という声が聞こえました。その時は、「本当に?これ?」という感じで、そのまま引き続き用語集をめくっていきました。そして、次に「シャンティ」(Shanti: Peace)「平和」という言葉を見つけ、またその時に自分の中の声が「これだ!」と言いました。その2つの言葉をくっつけてみて、「だめ!だめ!あまりにもスピリチュアルって感じでだめだ」と打消し、また無視し続けました。そのまま数か月が過ぎ、ある時点で不思議にも「今が改名するときだ。」と感じました。もちろん、これはエゴ的な考えではないかとかあれこれ考えましたが、それから数か月後にその迷いは消えました。「今だ。」なぜだか解りませんが、その時が来たと思いました。

改名することを決意したのですが、そのことを誰にも話さないで次のサットサンに行きました。すると、その日のトークに来た人たちが今までとは全く違った人なのに気が付きました。もっとスピリチュアルに、心理的に円熟した人たちで、スピリチュアリティに対して真剣な人たちばかりだったのです。まるで、指をぱちんと鳴らして、全てが一気に変わってしまったかのように。そのトークの後に改名することを皆さんに伝えました。改名後、全ては一晩で変わりました。現在でも、改名と何かミステリーなことがつながっていたように感じます。自分でも理解できないことです。だから、そのまま名前をキープすることにしたのです。人には、「『アジャシャンティ』とは呼ばずに、『アジャ』と呼んでください。」とお願いしています。「アジャシャンティ」は、何か十分な根拠があるように感じませんか?あまりにも美しい名前じゃないですか?自分にとってはあまりにも美しすぎる気がします。(笑)

珠美:正直に言うと、その名前にちょっと威圧感を覚えました。(笑)

アジャ:私もそうでした。(笑)気持ち解ります。「アジャシャンティ」という名前を聞いて、多くの人が話しを聞きに行くのを止めたと聞きました。

珠美:私もその1人です!(笑)

アジャ:でしょう?私も恐怖を感じました(笑)。なぜ、サンスクリット語なのか?なぜ、仏教名でないのか、と言いたくなりますよね?
2014-01-26 15.16.29
インタビューの約束の時間に現れたアジャは、とても人懐こい笑顔でやってきました。「スピリチュアル・ティーチャー」とか「アジャシャンティ」から得る「偉い人」とか「有名人」とか(あくまでも私勝手の考えですが…)のアイデンティティを全く感じませんでした。まるで、「親切心」が人間の形をして現れたかのようでした。1時間のインタビューは、あっという間に過ぎ、とても充実した時を過ごせました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください